明智光秀はどんな人物?信長上等となったその経緯が意外?

 

力強い武将 と言うよりは何となく「穏やかなおじさん」というイメージのある明智光秀。彼は鉄砲の名手であり「百発百中」とまで称されていました。さらに、様々な学問にも通じている、まさに「文武両道」という表現が相応しい「デキる」武士でした。また主君に当たる織田信長からも、かなり信用されていたと見られています。

 

 

 

 

 

 

 

さて、まずは明智光秀の生涯を簡単に紹介します。

 

・1歳(1528年) 明智光隆の息子として誕生 

 

※明智光隆→美濃国の斎藤道三の家臣の1人 ・29歳(1556年) 道三の子供である義龍に明智城を攻撃されて、明智家は散り散りになってしまいます。それから、明智光隆は「放浪人」という立場で日本各地を渡り歩く事になります。

 

実は、こんな苦しい時期があったんですね…… そして放浪する中で、鉄砲を代表とする武士に欠かせないテクニックや、和歌をはじめとする「学」も習得していきます。

 

この折にその頃 国を我が物としていた足利幕府の重要人物である細川藤孝と出会います。そして色々な経験をして、越前の朝倉善景の傘下に入ります。・38歳(1565年) 

 

この頃に三好三人衆と松永久秀が13代目の将軍 足利義輝の暗殺を果たしてしまいます。これを「永禄の変」と言います。

 

 

 

※三好三人衆→近畿地方で躍動していた重臣 メンバーは、岩成友通・三好正康・三好長逸 細川藤孝は足利義昭を保護しつつ、足利将軍家の復活を目指して頑張ります。藤孝は義景に協力を仰ぎつつあったため、光秀と細川はこの折に再び顔を合わせる事になります。

 

・41歳(1568年) 

 

義景は全然足利家の復活のために力を貸そうとしません…… 

 

業を煮やした光秀は、尾張の織田信長に救いを求めます。そして、織田信長はこの願いを聞き入れて、織田信長と明智光秀は一緒に京都に上洛する運びとなります。織田信長に立たされて上洛した義昭は最後には朝廷に承認され、15代目将軍の地位を手にします。織田信長のその頃の勢いは、朝廷をコントロールするほどのものだったんですね! 義景に仕えていた明智光秀は、これをきっかけに信長に乗り換える事となります。事が無事に済み、織田信長が京都から出てからは、明智光秀は村井貞勝らと京都に居残って平和のキープのために尽力しました。・43歳(1570年) 

 

信長と義昭の関係性がおかしくなり始めます。「力」を使って天下統一を目論んでいた織田信長と、足利幕府の復活のために頑張ろうとしていた足利義昭との間に、軋轢が生じてしまったのです。明智光秀は、両者の仲を何とか良くしようとするのですが、義昭は信長を討伐しようとします。他方 天下統一のために突き進んでいた織田信長に明智光秀は「打倒浅井氏」のためのプランを提示します。そしてこのプランが後の「姉川の戦い」となり、信長は浅井・朝倉群を打破します。明智光秀は、この事を織田信長にかなり評価されて、京都の警備を任命される事となりました。・44歳(1571年) 明智光秀は信長の指示に沿って、比叡山を焼き討ちします。・45歳(1572年) 明智光秀は織田信長から近江の志賀郡五万石を付与されます。

 

そして、焼き討ちを行った比叡山麓の坂本の行政を執り仕切る事となります。そして、守護の中心地として琵琶湖岸に坂本城を建て、そこに入ります。

 

 

 

 

織田家の出世頭になった明智光秀は城のトップにまで登りつめたのです。・46歳(1573年) 

 

越前に進攻し、さらに功績を挙げます。

 

坂本城@ 

 

「坂本城跡」 そして「打倒織田信長」を掲げていた足利義昭を倒すべく、織田信長自信と一緒に山城槇島城に侵攻します。結果的に足利義昭は負け、形式上 これで室町幕府は終焉を迎える事となります。

・50歳(1577年) 

 

織田信長に反抗した松永久秀が住んでいた信貴山城に侵攻して、彼を倒します。

 

・51歳(1578年) 丹波に亀谷城を立て、坂本城もありますから、なんと2つの城を所持する事となります。

 

 

 

 

織田信長の側で確実に大名としてのパワーを蓄えていきます。

 

「亀山城のレプリカ」 ・52歳(1579年) 丹波にある八上城の波多野秀尚・秀治兄弟を攻撃して城を落とします。

 

そして、弓削城のトップ、一色義定を攻撃して打倒し、織田家はいよいよ丹波を支配する事となります。この功績により、織田信長から丹波二十九万石を付与され、織田家の近畿地帯に関しての司令塔という立場になります。福知山(福智山)城を建てて、光秀の子供の夫の明智秀光を城のトップとしました。福知山城c 

 

「1986年に復元された福知山城」 ・55歳(1582年) 中国地帯の司令塔だった秀吉は織田信長に出馬要求を出して、織田信長はこれに応じて、大軍を送り込みました。

 

この中には明智光秀も含まれていました。しかし、明智光秀は織田信長を裏切り、信長のいる本能寺に軍隊を向けます。そして、織田信長を襲い、本能寺は燃え上がります。そして織田信長はそこで自決しました。

 

これが世に言う「本能寺の変」です。明智光秀はそれから周囲に信頼されず、孤独になってしまいます…… 中国地帯から帰還した秀吉と、山崎で争いますが、負けてしまいます。

 

そして、この争いの後に逃亡しますが、その中途で、小栗栖の竹藪で、農民に襲われ死亡します。このとき、55歳でした。

 

 

 

最後に。。。

 

 

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